
「人間が踏むまで」という表現は隠喩。人は子供のうちは無垢で純真ですが、大人になってゆくうちに手垢が付いて行きます。そのことが喩えられたように思えました。

大雪はうらめしい。その中にあって普段畠を荒らされる野鹿たちはどうしているだろう。食べ物はあるのだろうか、と思いやれる優しさ、持ち続けていたいですね。

淡雪は手のひらで受けても、すぐに溶けてしまいます。刹那の雪、まさに一期一会と言えましょう。さらに雪にその覚悟があると言う、雪こそが自分自身なのです。

雪のホームは寒い、人気のないホームはなおさらです。でも今、独りホームに佇む私の胸は見送る彼のことを思い寒さなど感じないほど熱く燃えています。

雪と鍋というあたりまえの対比を問いと答えという合言葉にまとめました。表現の面白さとリズムがいいですね。

雪を一ひらと数え、身奇麗と感じる心こそが静謐。

結晶、眼鏡、キッス、万華鏡を連ねて上手い!

こういうサンタでいいじゃないか。来てくれて嬉しい。

しんしんと降る雪にしばし忙しさを忘れます。

やがてはげしい、が心の移り変わりを表わしています。

真っ青な富士もいいですが、やはり雪が似合います。

恐いけどちょっと見てみたい。

そんなことは言うはずがないところが川柳。

吹雪くような筆跡、気性の激しいかたでしょうか。

真っ白な雪の下は実はゴミだらけ。哀しい現実です。

雪国の厳しい現実、くれぐれも気をつけて下さい。

雪に弱い都会の現実、異常気象には困ります。

ただ静かに降って消える、口に出来ないお互いの本音のよう。

冬限定という表現で句がきりっと引締ります。

寒かったけど、雪のおかげで助かった。

ほとんど聴かなった単位と祖父の存在の重み。

その痛みが消える頃春になります。

一心不乱にただ雪を掻く、やらねばなりません。

おもしろいみたての句ですね。

どさどさ、とふる雪がまたいいのです。

ちょっと古くなったけど、小枝のイナバウアー。

ひとつの歴史を感じます。

雪のかなたにある自分だけの過去。

それはそれであいきょうです。

あやかりたいですが、そうはいかないのです。


























































